« 駅きかく会議~次回ワークショップに向けて。 | Main | コミュニケーションラボラトリー~伊藤守講演会 »

December 09, 2004

掘るまいか

かいです。

今回は、8日に新潟市総合福祉会館で観た、山古志の中山隧道を取り上げたドキュメンタリー映画「掘るまいか」の上映について報告。

中越大震災により、大きな被害を受け、全村民が村外に避難している山古志の人たち。そんな山古志の人たちだが、かつて、冬の閉ざされた生活を打破する為、自分たちの手で、長さ1kmもあるトンネルを自分たちの手で掘りあげた人たちでもある。
その事実は、山古志の人たちばかりではなく、我々が共有すべき財産でもある。それを、伝えるべく作られたこの映画。
私も、今回の地震に際し、その事実を確認することで、今まで何も出来なかった自分も、被災者との関われるのかと思い、上映会に参加した。
会場は、満員とまではいかないが、かなりの人、結構関心が高いみたい。


以下の文章は、映画「掘るまいか」のあらすじと、HP「中山隧道サイトB面」を参考に作成。

          ◇                    ◇

この話は、山古志村の小松倉集落の話。この集落は、山に囲まれ、大きな街に出かけるには、必ず峠を越えなければならなかった。その中でも一番近い街が小出で、その為には、中山峠を越えなければならなかった。
しかし、この峠、冬には、4mの積雪。その為、集落は孤立し、病人が出た際には、吹雪の中、病人を小出まで運ばなければならず、何人もの助かる命が助からなかった。
そんな、村の状態を何とかできないかと村民有志が立ち上がり、賛成派、反対派と集落を二分しながらも、賛成派有志により昭和8年11月工事が始められた。

工事は、困難を極めた。資金も、満足な資材もない中、横井戸掘の技術と有志のやる気だけでの作業。作業は冬の農閑期の中での作業。その為、今まで、出稼ぎで稼いでいたわずかな現金収入も乏しくなり、村は疲弊を深めた、そんな中、今までトンネルを掘っていた人達からも脱退者が出、又、賛成、反対双方の対立が深まり、村はバラバラになっていく。賛成派も、反対派も、村を思う気持ちには変わりないのだが...。
そして、戦争。若者は戦場へ行き、物資も不足していく。戦争はこの事業の遂行を困難にし、300m程掘ったところで、とうとう工事は中断。やがて、日本そして世界は、大きな犠牲を払い、終戦を迎える。

終戦後、生き残った若者は又、村に帰って来た。そして、復興の足音。
若者を中心に、トンネル工事再開の声。村長も、小松倉出身者が務めることとなり、新村長は県庁に何度も足を運び、工事への支援を陳情した。その結果、林道工事として、補助金が出る事となったが、その為には、集落の総意が必要であった。やがて、賛成派と反対派は和解し、集落挙げての工事再開となった。
工事の中心になったのは、若い男達。しかし、工事で使い痛んだつるはしを町の鍛冶屋に直しに持って行くのは女性達の仕事だった。吹雪の峠を、つるはしを担いで超えた。女性達は、作業に当たる男衆の弁当箱に精一杯飯を詰め、子供達に豆や芋の入った飯を食べさせながら、自分たちは、粥をすすった。

小松倉が一丸になってのトンネル工事。そして、昭和24年5月1日、ついに中山隧道は開通した。
小松倉の人達は、冬でも安心して小出に出かけることが出来るようになり、生活もはるかに豊かになった。
以来、数十年、中山隋道は平成10年に新しい中山トンネルが出来るまで、小松倉の人達の生活を支え続けた。

          ◇                    ◇

この話は、かつて「中山隧道サイトB面」のHPで見かけ、何回見ても涙が出た話である。そして、今回の上映でも、同じ話を何度も聞いたにも拘らず、又、涙を流してしまった。
特に、ラストのトンネルを掘りあげた人達の笑顔のシーンは感動した。
山古志の人達から、元気とまちづくりに必要な何かをもらった映画だった。

|

« 駅きかく会議~次回ワークショップに向けて。 | Main | コミュニケーションラボラトリー~伊藤守講演会 »

Comments

The comments to this entry are closed.

TrackBack


Listed below are links to weblogs that reference 掘るまいか:

« 駅きかく会議~次回ワークショップに向けて。 | Main | コミュニケーションラボラトリー~伊藤守講演会 »