July 13, 2005

7.13

かいです。

平成16年7月13日

あの朝、凄まじい雨の音で目を覚ます。6時半位だっただろうか?低地の我が家は、すでに床下浸水。道路は川と化していた。水位はどんどん上がり、家の前にあったドラム缶や、ビール瓶が流されていく。流されないようにって、素足で、水の中を歩き、回収して回った。

9時位になって、テレビを見ると、記録的大雨情報とか、五十嵐川が、警戒水位を超え、さらにダムから放流するとか。これほどの事態は、今まで経験が無かった。不安になり、テレビやパソコンの気象情報、河川情報を必死になって見た。

10時半になって、家の電話が鳴り、避難勧告発令の連絡。が、雨脚が弱まって来たので大丈夫だろうと少々安心。しかし、テレビから流れる、五十嵐川は、今にもあふれそうな状況。一新橋すれすれに、水が流れて来た。外からは、サイレンの音がひっきりなしに流れ始めた。

そして、お昼、全国ニュースに、一の木戸商店街の被災の状況。商店の冷蔵庫が流される映像。五十嵐川が越水している映像。あの場所は、我が家から、歩いて数分足らずの場所であった。お昼を食べ終えて外を見ると、水位は更に増し、水もにごり始めた。これはやばいのではと家財道具を二階に上げ始める。

が、二時半過ぎくらいから、水が急に引き始める。これ幸いと、玄関の水を掃きだす。水はどんどん引き始め、夕方近くには、道路が顔を出してきた。玄関にホースで必死に水を掛け、泥を掃きだす。そして、ほっとしたつかの間、テレビを見ると、対岸が破堤し、大変な被害に遭っているという話。三条の水害との闘いは、ここから始まった。

想像を絶する光景に

テレビから流れてくる映像。見慣れた景色が、一変している。この世のものとも思えない光景。言葉を失う。夜は疲れがどっと出て、かなり眠くなる。しかし、テレビから、ネットから、避難者の状況が刻一刻と流れてくる。聞きなれた地名、学校の名前が連呼される。しかも、避難所さえも危険なので、避難所から避難する状況だとか、大変な事になった。かなりの疲れているので、しばらくして就寝する。

翌朝、ヘリコプターのけたたましい音で目を覚ます。時々、耳慣れないジェット機の音、被害調査だろうか?街は混乱しているので、外に出ず、家で過ごす。空は、曇り空、しかし、雨は無い。テレビで流れる被災状況は凄まじい。車は流れ、ヘリコプターで救助される光景が次々と...。これは、この街で起こっている事。そして、この災害を何とかしなければという人達が立ち上がり始めた。ボランティアセンター設置の動き。

更に翌日、少し落ち着いたと思い、車で街に出る。一の木戸商店街には、おびただしいゴミの山。そして、凄まじい渋滞。普段なら10分足らずで商店街を抜けられるが、1時間経ってもまだ抜けられない。やがて、8号線に...。8号線も、凄い渋滞。県外から消防、警察、そして、自衛隊のトラック。見た事も無い光景。そして、嵐南(破堤した方)へ。ここは、私の20代の時の仕事場。しかし、今までの光景が一変している。両側にはゴミがうずたかく積み上げられ、見慣れた商店、コンビニ、ホームセンター、スーパーの無残な光景。流された家もあった。民家、会社、商店では、皆が疲れた表情を浮かべながらも必死に後片付けをしていた。かすかに見える復興の足音。

そして、ボランティアに

やがて、ボランティアセンターが立ち上がり、全国各地から、ボランティアが集まり始めた。私も、色々なつながりから、ボランティアの情報を知り、ボランティアに参加することにした。背中にリュック、首にはタオルの長靴姿。ボランティアセンターには凄まじい人の数。早速、現場に向かう。

街を歩くと、今回の水害が、いかに凄まじいものだったかを感じさせられる。しかし、被災者の人達は、皆、暖かかった。お邪魔した家でも、通りすがりの人達も、皆、親切だった。そして、センターの運営の手伝いもした。市内のボランティアは重宝された。土地勘があるので、道案内を行った。全国各地から来る、老若男女様々な人達に、被災地を案内した。被災者の皆さん、一緒に作業したボランティア仲間、そして、センターのスタッフ。今でも思い出すと懐かしさがこみ上げる。

あれから一年

あれから、一年が経った。街は平静を取り戻した。しかし、まだ、仮設住宅があり、廃業した店もある。この街は変わった。そして、河川改修で大きく変わるだろう。

私の意識も変わった。今までは敬遠していたボランティア活動の素晴らしさを知った。そして、地元でありながら、目をそむけていた三条の街について考え、感じるようになってきた。

過去に遡って、災害をなくすることは出来ない。しかし、これを教訓にして、今後の災害の際にいかに対処していくか、常に肝に銘じる事で、今後、発生が予想される災害から、くらしを守る事はできる。

多くの人命を奪い、甚大な被害をもたらした、7.13水害。しかし、ここから学ぶべき事は数多くある。

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March 15, 2005

参加型パネルディスカッション~くらしと防災・安全なくらしのために 2.

かいです。

久々の本格更新。
しつこい風邪もようやく下火となり、やっとこのブログを更新しようという気が出てきました。
今回風邪を引いた中で、拙いブログの管理人かいに対し、様々な方から、お見舞いのメッセージ、メールをいただきました。心より感謝申し上げます。

ところで、今回は、2/19に行われた、7.13水害及び中越大震災についての参加型パネルディスカッションの報告の続きです。
あれから、一ヶ月近く経つのですね。ネタとしてはかなり古くなっており、記憶も大分薄れて来ましたので、果たして、このテーマで記事を書いていいのかと迷いましたが、中途半端に止めるとまとまりが無くなってしまう感じがしましたので、続きを書く事にしました。

           ◇                    ◇

講演では、畠中氏が、最新防災技術の立場から、石月氏が経験から、阿部氏が体験からそれぞれ発表を行ったが、今回のパネルディスカッションは、先に発表いただいた、畠中氏、石月氏、阿部氏に加え、技術士会北陸支部青年技術士委員長の堀田氏と、当日司会の小見氏が加わって行われた。

参加型パネルディスカッションとは、従来のパネルディスカッションのように、壇上でディスカッションを行った後、質疑応答という形式ではなく、パネラーと聴衆が、一体となってディスカッションを行う形式である。

まず、今回の震災を通じて感じたことを各人が述べる。

今回の災害は、大変大きな犠牲を払ったが、思っても見ない様々なものが見えて来た。
お年寄り等の災害弱者の問題、地域の防災力の低下等の問題が見えてきた。我々は、自ら災害に立ち向かうのではなく、行政等に頼り切っているのではないかという声が聞かれた。
地域の者自らが災害に対峙していく力を身に付けていく必要があるのではとの声が聞こえた。

そんな中、過去の知恵に学べとの声も聞こえた。

今回の災害では、元気なお年寄りが、過去の経験からとても良いアドバイスをしたり、リーダーシップを取り、地域をまとめたりした。
又、今後の河川改修に関しても、かつて行われた霞堤二線堤等の発想を生かすべきではないかとという意見が出た。
今回の水害では、近代の河川改修で行われた旧川を締め切った所が切れているという。
堤防を頑丈にし、水を効率的に流すという近代の河川改修の限界に対し、洪水を許容し、その中でいかに我々が生きるかについて考えるべきではないのかという意見が聞かれた。
そして、実際に刈谷田川では、遊水地が設けられるとの話が聞かれた。

そして、市民が実際に災害に対し、どう対処していくかについて話が進む。

とにかく、最近の市民は、災害に対し無頓着だという。
水害の際に、マンションの上階の住民は知らん顔で、平気で風呂に入ったりして、水を流したりしているという。
自分に被害が及べば、声を高らかに行政批判を行ったりするのだが、被害が及ばなければ、全くの無関心という市民のあり方は反省すべきでないのかとの声が挙がった。
そして、町内会等を通じた地域のコミュニティ作りが必要だという声も聞かれた。
今回の災害では、皮肉なことに災害に対処する中で、地域のコミュニティが深まったという声も聞かれた。
安全安心のまちづくりといっても、なかなか実感が湧かないものである。しかし、地域の特性を踏まえた上でのまちづくりが求められている。

そんな中、その地域が災害に対しどうなのかという情報が見えにくくなっている問題が挙げられた。

昔は地名に、「池」とか「浦」等、水に関する名前が付いていたりして、水害に対し弱い地域だという事が地名を通じて分かったものだが、最近の開発行為では、そのような地名を変更し、感じの良い地名を付け、それをごまかしたりしている。
又、行政側も、災害に対し弱い地域という事を認識しないで、開発許可を出したりしている。
この地域が災害に対し、どうなのかという情報開示が必要である。そんな中、ハザードマップを利用したりして、行政、市民とも、その地域の情報を知る事が必要なのではないのかとの意見が出た。

そんな形でディスカッションは進んでいったが、私なりに要約すると、三つの要点に整理されるのではと思う。
一つ目は、過去から学ぶ事の大切さ、
二つ目は、市民の意識、コミュニティの問題、
三つ目は、情報の行政と市民の共有の問題。
とまとめられるのではないかと思う。

過去から学ぶ事の大切さについては、人間は本来災害に弱いものだと思う謙虚を思い起こすべきではないだろうか。昔の家は、現在の家に比べて、作りは頑丈ではなかった。しかし、地震で倒壊しても、人が死なない作りだったという。又、低地に建てられる家は、床を高くしていたという。
災害という脅威に対し、それに対抗できる力を持ち合わせていなかった昔の人は、災害と上手に付き合いながら、自らの生活を守っていた。そんな昔の知恵に学ぶべきではないのか。

市民の意識とコミュニティの問題については、災害から身を守るのは行政ではなく、自分自身だという事を肝に銘じるべきである。
災害時は、行政の担当者も被災者であり、行政の力も限界なのである。そんな中、まず、自分たちで、そして、周りの人達と、それでも及ばない部分は、公の力を借りるという、「自助、共助、公助」の考え方が重要ではないのかと思う。

情報の行政と市民の共有の問題については、やはり行政の情報開示が重要である。どの地域が、どんな災害の際危険なのかという情報を市民にハザードマップのような形で、分かりやすく示すべきではないのか。
行政が情報を独占する事は、市民の自ら地域を守るという意識を低下させている。
そして、普段から市民と行政の間でコミュニケーションを取る事も必要である。

以上、私なりにまとめてみたが、うまくまとまったであろうか。

災害では、今までのシステムが役に立たず、市民の生身の姿が明らかになる。
普段から、市民力を高めていく事が必要である。

かなり、分かりづらい文章になってしまいましたが、何らかの参考にしていただければ幸いです。


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February 21, 2005

参加型パネルディスカッション~くらしと防災・安全なくらしのために 1.

かいです。

今日は、19日に行われた、日本技術士会北陸支部主催の参加型パネルディスカッションについての報告。
かいは、昨年から、修習技術者の立場から技術士会北陸支部の青年技術士委員の仲間に入れてもらっている。

北陸支部の青年技術士委員会は、「くらし」をテーマに見学会や、パネルディスカッションを行っているが、今回は、昨年発生した、水害、地震の体験から、どのように学び、どのように行動していけば良いのかについて、立場の違う三人から、講演して頂き、そして、一般参加者を交えた、パネルディスカッションを行う事となった。

               ◇                 ◇

一人目は、国土交通省北陸地方整備局河川部建設専門官の、畠中泰彦氏による「刈谷田川における水害シュミレーション」について。

これは、昨年発生した、刈谷田川の水害について、①広域の②破堤箇所の③河川縦断水位変化と破堤氾濫等の関係(刈谷田川がどの位の水位で推移し、どの時点で破堤したか)の三点について行った、シュミレーションである。
①の広域では、50mメッシュにて水の深さ、速さから、歩行が可能(自分で逃げられる)かについての検証である。
②では破堤箇所にて、FDS法を用い、2mメッシュで、深さ、ベクトルから、家屋流失時間(深さと水位との関連)、歩行可能性、家屋に作用する流体力についての検証である。
③については、不定流計算から、ダムの操作と水位の関係を検証したものである。

それら三点から、今回の刈谷田川水害について検証すると、
今回の水害では、水か来てから8分程で、歩行不可能となった事、
40tの水の力を受けると家に被害が出る事、
氾濫水が来た箇所は、半分の確率で、歩行不可能となり、それが10時間経っても変わらなかった事、
が挙げられた。
結果、今回のような水害では、氾濫水が来る前に逃げる事の重要性が示された。

このシュミレーション、今回の水害の検証に大いに役立つものである。
住民が、水害被害を実感できると共に、災害の学習教材、避難訓練に役立てて欲しいと思う。

更に、個別河川のシュミレーションを行う事により、地域の避難行動計画に役立てるべきである。
市民が、この様な情報を持つ事は極めて有効である。行政側も、ダムの放水について等、市民に確実に情報公開をする事によって、市民との価値の共有が図れるのではないかと思う。
それは、今後の防災について大きな宝となるであろう。

              ◇                 ◇

次に、建設部門の技術士で、北陸地方防災エキスパート、北陸地方砂防スペシャルエンジニアの石月 升氏より、「河川災害と先人の知恵」というタイトルで、現代生活や近代の土木技術で忘れられつつある、先人の知恵から防災について学ぼうという話である。

戦後の日本は、治水事業により安全な国になった。そして、近年の異常気象による、時間80mmという雨量にも我々は、驚かなくなってしまい、災害というものに鈍感となってしまった。
しかし、昨年は、集中豪雨や相次ぐ台風の襲来と風水害、そして、中越大震災にスマトラ沖地震と災害が多発した年であった。

野生生物は、災害に敏感だという。昨年のスマトラ沖地震でも、象は災害を察知し、山に逃げたという。そして、象に乗っていた象使い達は生き残ったという。又、漁師の中で古くから言い伝えられてきた、地震の際の波の動きを察知し、生き延びた人達がいるという。
生物の本能や、自然を素直に見つめてきた先人の知恵。我々は、忘れていないだろうか?
先人の知恵は、伝承されていないのが現実である。数日前には、なだれ災害があり、犠牲者も出た。気温が上がり雪解けが進む昼間は、なだれの危険性が一番高い時間である。そんな中、山に近づくのは危険だという事は古くから言われてきたが、現代には生かされていないというのが現実である。

最近の人達は、ご飯の炊き方が分からないという。昔の生活が伝承されない現実。台所も必要なく、トイレは水洗。そんな快適な生活も、いざ、災害となれば、原始時代へと突き落とされる。
もちろん、携帯電話は使えない。かつては、各集落には半鐘があり、集落の住人にそして、他の集落との情報の連絡に使われた。そんな半鐘も、今では、無用の長物として撤去された集落も多かったという。そのような集落では情報の断絶に悩まされた。しかし、今回の地震では、半鐘の残った集落は、それが集落と住民、そして、集落同士の連絡に非常に役に立ったそうである。
そして、今回の災害では地域のコミュニティが生活を支えたという。
この様な非常時には、行政の力が当てに出来ない。まず、地域の者自らが、生活を支えていく必要があるという。

自然に素直になり人間の野性に目覚める事、先人の知恵に学ぶ事、地域の者が協力して危機を切り抜けていく事の三点は災害から身を守る知恵である。

そして、それは、川づくりにも言える。
かつての堤防は、地下かなり掘り下げて、地盤を十分に固めて築堤したという。そして、柳等の木を植え、水勢を弱めたという。堤防も、二重に築堤したという。そして、その間の田畑には税金を掛けなかったという。いざ、水害となれば、その田畑を守る為、農民は皆必死になって堤防を守ったという。
自然の知恵と人間の営みによって行われた昔の治水。我々も学ぶべき事は多くあるのではないだろうか。

              ◇                 ◇

三人目は、機械部門の技術士で、小千谷の自宅と長岡の勤務先が中越大震災で被災した、阿部治彦氏の、被災体験、「新潟県中越地震の体験報告」である。

阿部氏は、自宅にて被災されたそうである。
自宅は、豪雪地帯の為、他の地域の住宅よりも丈夫に作ってあるが、柱と壁の境目に多数のヒビが入ったそうである。
中は、足の踏み場の無い程散乱。ガラスも粉々になり、危険な状態。度重なる余震も重なり、中での生活は困難となったそうである。
そして、情報の断絶。ラジオが使えない、携帯も使えない。我々は、被災者が一番情報をもっているものだと思っていたが、実は被災者が当時は一番情報が途絶えたという。
そんな、何も無い中での避難生活。車で10日程生活したそうで、エコノミークラス症候群にもなりかけたという。

そんな中、一番頼りとなったのは、地域のコミュニティであった。
人づての情報が、何よりも有効だったという。そのような中で、情報を入手し、支援物資の情報を得たり、スタンドでガソリンを手回しの機械で入れてもらったりしたという。

数日して、買い物がてら出かけると、長岡や三条は無事で愕然としたという。
今回の地震は、限られた地域に大きな被害をもたらした。

そんな、被災状況だったが、インフラやライフラインの復旧は急ピッチで進められたという。
しかし、電気、ガス、水道の復旧には大きな差があったという。
一番早いのは電気で、数日、水道は2週間、そしてガスは一ヶ月かかったという。
特にガスは、大変だったらしい、情報の混乱?から、昨日掘ったところを、翌日、又、別の業者が来て掘り返したりしたという。
ライフラインは、全てが揃わないと、本格的な機能を発揮しない。
風呂は、電気ガス水道が全て揃わなければ、沸かすことが出来ない。
そんな中、自衛隊が設置した風呂は、助かったという。
様々な行政の支援は、被災者を助けたそうである。しかし、行政の人たちも被災者であり、それに頼り切るのは限界であった。

街が少しづつ復興して、阿部氏も会社に出勤できるようになった。しかし、会社はまだ物が散乱して、後片付けの途中だったそうである。(被災当時は、メチャクチャだったそうである。)
会社は、精密機械を扱っている為、底には1mもコンクリートが打設してあるのだが、隙間が出来たという。そして、被災した機械の調整には苦労したそうである。
更に、協力業者も被災したので、納期遅れが発生したという。
今回の地震、長岡の主要産業である機械産業にも大きなダメージを与えた。

そんな大きな犠牲を払った震災だったが、教訓として、
電気、ガス、上下水道、プラス情報が大切。
普段の備えとして、水と食料、カセットコンロ、そして携帯電話と充電器が必要。
地域のコミュニティが役立つ。
避難形態としては、大きな避難所に行くのが一番良い。
との事が挙げられた。

問題として、
支援物資の不公平。
子供老人を中心とした心の問題。(被災して2~3日してからがきつくなる)
仮設住宅の結露の問題。
今後の文化財の復興。
等が挙げられた。

以上三氏の講演、私なりにまとめたつもりだが、(うまくまとめられていないが...。)
その問題提起を基にパネルディスカッションに続く。


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January 17, 2005

10年って長いのか短いのか~阪神淡路大震災より10年

かいです。

今日は、阪神淡路大震災から10年目。
今でも、あの日の事は覚えている。

雪の朝、遅刻しないようにって早起きしたあの時、親父がつけたラジオから聞いた、神戸の惨状。「阪神高速が倒れているって」。
そして、仕事の車中のラジオで刻一刻と流れてくる被害状況。
昼食の詰所。小さいテレビから映し出される、凄惨な光景。何でビルが倒壊するの?
家に帰っても、テレビに釘づけ。長田の火事は、夜になっても消えない。

そして、沢山の被災者。毎日映し出される避難生活の様子。
そして、徐々に復興。道路が、鉄道が、ライフラインが。しかし、中々進まない、生活再建。

あれから10年。あっという間の10年。かいも、10歳歳をとった。
かいも、震災後、数回は神戸に足を運んだが、神戸に行く度に復興は進み、街はかなり復興した。
営みという、人々のエネルギーと、沢山のお金と、そして時間の力なのか?
でも、失ったもの、戻ってこないものもいっぱいあるだろう。

震災から10年。あっという間の、長い時の一区切りの一日だった。

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December 09, 2004

掘るまいか

かいです。

今回は、8日に新潟市総合福祉会館で観た、山古志の中山隧道を取り上げたドキュメンタリー映画「掘るまいか」の上映について報告。

中越大震災により、大きな被害を受け、全村民が村外に避難している山古志の人たち。そんな山古志の人たちだが、かつて、冬の閉ざされた生活を打破する為、自分たちの手で、長さ1kmもあるトンネルを自分たちの手で掘りあげた人たちでもある。
その事実は、山古志の人たちばかりではなく、我々が共有すべき財産でもある。それを、伝えるべく作られたこの映画。
私も、今回の地震に際し、その事実を確認することで、今まで何も出来なかった自分も、被災者との関われるのかと思い、上映会に参加した。
会場は、満員とまではいかないが、かなりの人、結構関心が高いみたい。


以下の文章は、映画「掘るまいか」のあらすじと、HP「中山隧道サイトB面」を参考に作成。

          ◇                    ◇

この話は、山古志村の小松倉集落の話。この集落は、山に囲まれ、大きな街に出かけるには、必ず峠を越えなければならなかった。その中でも一番近い街が小出で、その為には、中山峠を越えなければならなかった。
しかし、この峠、冬には、4mの積雪。その為、集落は孤立し、病人が出た際には、吹雪の中、病人を小出まで運ばなければならず、何人もの助かる命が助からなかった。
そんな、村の状態を何とかできないかと村民有志が立ち上がり、賛成派、反対派と集落を二分しながらも、賛成派有志により昭和8年11月工事が始められた。

工事は、困難を極めた。資金も、満足な資材もない中、横井戸掘の技術と有志のやる気だけでの作業。作業は冬の農閑期の中での作業。その為、今まで、出稼ぎで稼いでいたわずかな現金収入も乏しくなり、村は疲弊を深めた、そんな中、今までトンネルを掘っていた人達からも脱退者が出、又、賛成、反対双方の対立が深まり、村はバラバラになっていく。賛成派も、反対派も、村を思う気持ちには変わりないのだが...。
そして、戦争。若者は戦場へ行き、物資も不足していく。戦争はこの事業の遂行を困難にし、300m程掘ったところで、とうとう工事は中断。やがて、日本そして世界は、大きな犠牲を払い、終戦を迎える。

終戦後、生き残った若者は又、村に帰って来た。そして、復興の足音。
若者を中心に、トンネル工事再開の声。村長も、小松倉出身者が務めることとなり、新村長は県庁に何度も足を運び、工事への支援を陳情した。その結果、林道工事として、補助金が出る事となったが、その為には、集落の総意が必要であった。やがて、賛成派と反対派は和解し、集落挙げての工事再開となった。
工事の中心になったのは、若い男達。しかし、工事で使い痛んだつるはしを町の鍛冶屋に直しに持って行くのは女性達の仕事だった。吹雪の峠を、つるはしを担いで超えた。女性達は、作業に当たる男衆の弁当箱に精一杯飯を詰め、子供達に豆や芋の入った飯を食べさせながら、自分たちは、粥をすすった。

小松倉が一丸になってのトンネル工事。そして、昭和24年5月1日、ついに中山隧道は開通した。
小松倉の人達は、冬でも安心して小出に出かけることが出来るようになり、生活もはるかに豊かになった。
以来、数十年、中山隋道は平成10年に新しい中山トンネルが出来るまで、小松倉の人達の生活を支え続けた。

          ◇                    ◇

この話は、かつて「中山隧道サイトB面」のHPで見かけ、何回見ても涙が出た話である。そして、今回の上映でも、同じ話を何度も聞いたにも拘らず、又、涙を流してしまった。
特に、ラストのトンネルを掘りあげた人達の笑顔のシーンは感動した。
山古志の人達から、元気とまちづくりに必要な何かをもらった映画だった。

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November 29, 2004

あっという間に

かいです。

INTA新潟、地域サロンin山形、新潟駅周辺整備PR展と大きなイベントが終わり、疲れたーと更新をさぼっていたら、あっという間に一週間。久々の更新です。

思えば、あさってからは師走。とても早いスピードで、あっという間に一ヶ月が過ぎてしまうという12月がすぐそこに...。
今週、そして12月も「駅きかく会議」、「新交通のシンポジウム」、「伊藤守氏の講演会」、「新潟駅前広場のWS」...と結構忙しい日々が続くかいであります。(詳細は随時アップしていく予定)
そんなこんなで、一ヶ月、いや、今年も、あっと言う間に終わってしまうのではと思います。
とにかく、残り少なくなった、激動の平成16年を大切に生きて生きたいと思います。
神様、どうか、残りの一ヶ月、平穏に過ごせますように。(事故災害の無いように)

          ◇                      ◇

今日から、信越線が復旧。やっと、日本の大動脈である日本海縦貫線が復旧しました。関越も4車線が復旧し、「中越大震災」(今度からこう表現します)で甚大な被害を受けた新潟県も、少しづつですが復興の音が聞こえてきました。
そんな中、久々にまちづくり学校のおおのさんのブログが復活。震災直後から、ずっと長岡のボラセンで運営スタッフとして活躍されたおおのさん。お疲れ様でした。
私もボランティアに行こうかと迷ってばかりいたら、何も出来ずにあっという間に一ヶ月余り。
長い冬が終われば、あっという間に春が来ます。冬が来る前に、春になるまでにと復興は進むのではと思います。
先回の7.13水害と比べても、規模も性質も全然違うこの震災。そんな中私は現地の被災者に何が出来るのか。
うーん。あっと言う間に時間が過ぎていく...。


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October 24, 2004

中越地震

かいです。

昨日の地震、凄かったですね。
我が家も棚から物が落ちてきて大変でした。あと、立て続けに起こる余震、いつ、又大きい揺れが来るかとビクビクしながら、一夜を過ごしました。
今日も、回数、大きさは減っているものの、余震は続いています。
それにしても、中越地方の被害は甚大。見慣れた風景が、見るも無残な姿で報道される度に、胸が詰まる思いです。我が家の先祖が出た十日町方面も、かなり被害が出ているみたいです。

実は、私は、昨日の昼頃、偶然にも17号線を通り、魚沼方面に出かけたのでした。
土砂崩落した、長岡と小千谷の境目の辺りや、越後川口付近。トンネルが崩落した、和南津トンネルも通りました。
もし、半日前に、地震が起こったなら、私の命に関わっていたのかもしれません。
土砂崩落等で、流された人、建物、車も多かったみたいです。一人でも多くの人々が発見され、救出されれはと思います。

あと、被災地の人々の姿が、テレビに映される度、7.13水害の三条の姿を思い出されます。
家が被災し、着の身着のままで逃げてきた人々。これからの避難生活、その後の後片付け、復興の大変さを考えると、胸が詰まる思いです。これから、寒くなる季節なので、三条の水害の時とは違った辛さがあるのではと思います。

これからは、多数のボランティアが必要になると思います。県のボランティアセンターも開設されたみたいです。
かいも、7.13水害のお返しに、参加しようかと思っています。
交通機関がある程度復旧するまでば、動けないと思いますが、数日経ては、少しは形が見えてくるのではと思います。

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October 13, 2004

秋の日の三条~7.13水害から3ヶ月

かいです。

今日は10月13日。7.13水害から、3ヶ月経った。

街は、表向き復興したかに見える。この前の休みに被災した場所を通ったのだが、街の風景は水害に遭う前と同じ様な風景。水害の時に水に浸かりどうにもならなかった、コメリホームセンターも、スーパー原信も、蔦屋書店も普段どおり営業している。3ヶ月前、同じ場所で見た凄まじい光景は、どこに行ったのだろう...。
被災者からも、「自宅に畳が入ったよ」の声。復興は進んでいる。被災者と、それを支援してくれた人々のエネルギーの凄さを感じた。

しかし、市民プール前の敷地には、仮説住宅。私が小学生の頃、仲間と泳ぎに行った思い出のある場所に災害の足跡。まだ、この水害は終わっていないのだと感じた。
この水害で、生活が失われた人も多い。不景気の中、過去の遺産を食い潰しながら、何とか工場や商店を営んできた人々。そんな人達を襲った水害。我が家も小さい店を経営しているのだが、そういう話を聞くと、胸が詰まってしまう。

この災害で失ったものは大きい。しかし、人々の温かさ、そして、人々のエネルギーというかけがいのないものを得た感じもする。これから、この街がどうなっていくのかは定かではないが、きっと今まで以上にいい街になるだろう。
かいも、微力ながらこの街の復興に携わりたい。

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October 05, 2004

災害ボランティアのお礼

かいです。

今日、何を書こうかと思っていたところに、一枚のハガキ。読んでみると7.13水害の災害ボランティアのお礼だった。

7.13水害の後、私も数日、現場の後片付けや道案内に参加したボランティア。(体験談は、まちづくり学校おおのさんのブログに)。
私は、この水害が起こるまでは、どちらかと言うと、ボランティア活動に関心がなかった。不適切な表現かもしれないが、こういう活動をする人達は、何か特別な考えを持つ人達だと思い、敬して遠ざける感じだった。
しかし、水害が発生した後、私もまちづくり活動に携わる者として、「まちの復興の手助け」をしたいとの思いが芽生え、ましてや地元の対岸で起きたことであり、とにかく飛び込んでみようと参加したのだった。

今考えると、たった数日の活動ではあったが、自分の人生において、貴重な体験であった。
三条に全国各地から、延べ数万の人達が首にタオル、背中にリュック、足に長靴姿で手弁当で駆けつけた。ものすごい人のエネルギー。
日常ののさりげない会話の中に「ボランティア行って来た」。
仕事は、きつかった。しかし、毎日の活動に充実感があった。そこで出会った被災者、ボランティア仲間、センターのスタッフ...。出会ってから、ほんの一時しか触れ合っていないのに、今でもその姿と共有した時間を思い出す。
人間って暖かいんだ、すごいエネルギー持っているんたって。

災害から、二ヶ月経とうとしている今、「復興」が本格的に始まろうとしている。
三条のまちづくり、市民と行政が一つの方向を向いて協働で行わなければと思っている。かいも微力ながら何か出来ないだろうか。


■10月17日(日)に㈱コロナ体育館及び、近郊の嵐南地域(総合福祉センター・三条市ボランティアセンターのあった所)で「三条熾盛(しせい)祭」が開催されます。復興途上の三条にぜひ訪れて、この街の新たな芽生えを感じていただければ幸いです。

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September 29, 2004

台風じゃ

かいです。

書きたいことがいっぱいあるのに、いざ書こうとするとつい力が入ってしまい、結局何も出来なくなってしまう日々。
そんなときは、会話のネタのないときのセオリーとしての「お天気ネタ」というととで...。

台風じゃ!!

台風21号。今年になって8個目の上陸。本当に異常気象。今回の台風もコースを急に変え、日本列島へ。一体、天の神様は日本を狙い撃ちしているのだろうか、それとも、日本が大好きなのか?何を考えているのだろうか。

わが町三条を襲った7.13水害に始まって、福井とかの豪雨、そして、全国各地での台風被害、おまけに浅間山噴火。日本沈没(古ーっ)は近いのか。(ウァーッ話が飛躍するー)。

ともかく日本は、大変革を迎えているのだろう、そんななかで、まちづくりはどうすればいいのだろうか?(強引なこじつけ)。

台風の話をしようかと思っているうちに、話がおかしな方向にいってしまったが、とにかくこの台風、今までの台風と異なり、新潟を直撃しそうである。農作物等に被害が出なければと思う。
あと、雨も心配である。

とにかく皆さんお気をつけて。


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